鼻をつく排気ガスとガソリンの臭い
砂埃で目を開けていられない
四方八方で鳴るバイクやトゥクトゥクのクラクション
地面の歪みでバイクが揺れ、その度に後ろに乗っている僕の体に衝撃が走る。
僕はカンボジアの首都プノンペンにやって来た。
プノンペンは近年、急速に発展し、注目されている。
しかし、この交通渋滞を見る限り、この国にはもはや秩序などほぼ存在しないのではないかと思ってしまう。
そんな混沌とした空気の中、バイクの波をかき分け進んでいくと突如、目の前に建設中のビルが現れた。
何日か前、地上数十メートルでの作業中に器材が落下して通行人に直撃し、死者が出たらしい。
こっちでは、こういったたぐいの話はよく聞く。
僕も10年前、街を歩いていると突然、植木鉢が落ちてきて危うくぶつかりそうになったことがある。
海外いると日本で生活しているより「死」との距離はずっと近くなる。
さらにこの国の場合、タイなど周辺国よりも、はるかに「死」との距離は近く、常に隣り合わせにあると感じる。
その分、五感が敏感になり、それが何年経っても人々の記憶として残る。
そんな大きなビルを横切ると目の前に巨大なスタジアムが見えた。
古びた隣の体育館を併設するその姿は何十年も前に描かれた巨大な飛行船のようだ。
このプノンペン・オリンピックスタジアムは、ほんの数年前までプノンペン市内で最も大きな建造物の一つだった。
そして今年、これまで石畳のようだったメインスタンドに座席を設け、ピッチを人工芝に張替えるなど改修工事を行ない、生まれ変わった。
僕たちは帰る時のことを考えて、少し離れた場所にバイクを止め、スタジアムへ向かった。
スタジアムの周辺は試合を観に来たサポーター達で溢れかえっていた。
顔に国旗のペイントをした女の子たち。
大小様々な大きさの国旗を持った家族。
正規、非正規の違いはあるが、青いカンボジア代表のユニフォームを身にまとっている人が多い。
スタジアムに向かう人々の表情が実に楽しそうだ。
カンボジアには10年ほど前から通っているが、このような光景を見るのは今回が初めてだった。
彼ら彼女達の姿は、僕がこれまで世界中で出会った他のどの国のサポーターとなんら変わらない。
まるでちょうど1年前にブラジルワールドカップで見た光景を見ているかのようだ。
彼らはもう国を背負って代表チームを後押しする立派な「サポーター」だ。
0-4で敗れたシンガポール戦から5日。
皆、この日を待ちわびていたのだろう。
代表チームへの期待感が伝わってくる。
僕は、これまで何度もこのオリンピックスタジアムを訪れたことがある。
しかしこの日、僕が歩いたオリンピックスタジアムまでの道のりは、これまでのどの記憶よりも充実していた。
果たして僕が10年前に見た荒廃しきったあの姿はどう変わったのだろうか。
スタジアムの入口に向かう途中、目の前にフルーツジュースらしきものが売っていた。
興味があったので近づいて見てみたが、試合中にトイレに駆け込んでいる自分の姿を想像できたので購入を回避した。(僕はお腹が弱い)
その横で、おばちゃんが笊に入ったピーナッツを売っていた。
欧州ではよくひまわりの種をかじりながらサッカー観戦するのが主流だが、カンボジアはピーナッツなのか。
それにしても売れなさすぎて機嫌が悪いのか、おばちゃんの表情がやけに怖そうだった。
そんな表情をしていたら売れるものも売れないだろう。
笑顔は大事なのだと言ってあげたかったが、もちろんそんなことは言えるはずもない。
結局、こちらも購入には至らず、冷笑にだと思われて怒られそうなので、一瞬で写真を撮るだけにとどめた。
この試合のチケットのカテゴリーは1、2、3の3種類。
僕は1番高いカテゴリー1(それでも7.5ドル!)だったのでメインスタンドだった。
メインスタンドの入場口はわずかに1つだけしかなかった。
しかし、ゆるすぎる持ち物検査のおかげで、日本のような行列はできていなかった。
しかし、セキュリティを通過し、ほっとしたのもつかの間、警備員らしき人に呼び止められた。
原則、飲み物や食べ物は持ち込み禁止のようで、手に買ったばかりの水を持っていたので没収された。
あんなに持ち物検査がゆるいなら最初からバックに入れておけば良かったと後悔した。
スタジアム内部は、以前と違い、新しく電気がついていたものの、相変わらず薄暗い。
ひんやりとして、コンクリートの匂いが微かに漂う。
なんか、薄気味悪い。
併設してある誰もいない体育館のコートにたいして恐怖を感じる。
なぜかわからないが、ここに来ると毎回このような気持ちになるのだ。
そして、スタンドに行くためには、この鉄格子の門の前でチケットを最終チェック受けなくてはならない。
普段、僕はスタジアムに来ると、このスタンドに入る瞬間が一番好きだ。
目の前に広がる大観衆
ピッチの選手たちに降り注がれる大歓声
チャントを歌うゴール裏のサポーターたち
スタジアムの醍醐味がここにあると思っている。
しかしこの時は、先ほど付いた恐怖感に加え、この錆びついた鉄格子とまわりの汚さから虐殺などカンボジアの悲しい歴史を想像してしまい、躊躇してしまって、なかなか入ることができなかった。
さっきまでのサポーターを見て高揚していた気持ちは、どこに行ってしまったのだろう。
ここには何度も来たことがあるはずなのに・・・・・・
ちなみにこのスタジアムは1964年にできたらしい。
ということは1970年代のあのクメールルージュよりも前から存在していたということになる。
カンボジアの激動の歴史を全て見てきたこのスタジアムには、きっと何か不思議な力があるのだろう。
門の向こうで友人も待っていたので、僕は意を決して門をくぐった。
その瞬間、恐怖心はあっという間にどこかへ消えてしまった。
それは、そこがあまりにも「異空間」だったからだ。
まだ、満席とはいかないももの、スタンドはカンボジア代表の登場を待つ観客で埋め尽くされていた。
10年前、ここで試合を見た時は、観客と呼べる人はほんの数十人であとは野良犬と、選手が飲み干したペットボトルを集めるストリートチルドレンだけしかいなかった。
それが今や、チケットはsold outし、代表グッズを身にまとったサポーター達で埋め尽くされている。
驚きと嬉しさ両方のせいなのか、魂が震えているのが自分でもわかった。
少しすると、カンボジア代表選手が登場し、スタジアムが歓声で包まれた。
しばらくの間立ち尽くして、その練習の光景を見ていた。
やがて、徐々に気持ちも落ち着き、あることが脳裏に浮かんだ。
「このサポーター達の素敵な表情を撮りたい」
僕は最高の笑顔を探しにスタンドをまわり始めた。
スタンドのあらゆる場所で「サポーター達の笑顔」に出会うことができた。
元々、カンボジア人はシャイで自分のことをあまり表に出してこないと言われているので最初は声をかけるだけでも緊張したが、いざ話してみると皆、とびきりの笑顔で対応してくれた。
世界中、どのスタジアムに行っても試合前のこの高揚感は人をオープンにし、笑顔を引き出してくれる。
そして、待ちに待った選手入場。
FIFAアンセムが鳴り響く。
選手の姿が見えた瞬間、観客のテンションも最骨頂になった。
スタンドの至る所でカンボジア国旗が生き生きと動いていた。
近年、カンボジアでは施設などの環境が整っていないため、サッカーをはじめ、スポーツの国際大会を行なうことが多くない。
それだけにこの代表戦が自分達がカンボジア国民だということを自覚でき、誇りに思える唯一の機会と言ってもいいだろう。
この日の対戦相手はアフガニスタン代表。
同じグループ内には、シンガポール、シリア、日本と、カンボジア代表が唯一互角に戦えそうなのは、このアフガニスタンくらいだ。
それだけに今日は何としてでも勝利する必要があった。
僕は、カンボジアのサッカー人気のためにも、国内リーグのためにも、そしてタイガーFCのためにも、何としてでも勝利してほしいと願いながら試合を見た。
だが、前日のシンガポール戦に引き続き、この日もいいところなく、終盤アフガニスタンに1点の取られてしまい、0-1で敗れてしまった。
失点の直後、カンボジアの選手たちは崩れ落ち、なかなか立てなかった。
気持ちはわかるが、この時点でロスタイムを含めてまだ5分以上も時間が残っていた。
スキルや戦術もそうだが、メンタルが圧倒的に必要だと実感した。
正直、現在のカンボジア代表は弱い。
しかし、この試合を通して、カンボジアが誇れることもいくつか発見した。
アジアで行われたワールドカップ2次予選2連戦(6/11、16)の観客数で上位1位と3位はなんとこのスタジアムである。(2位は日本vsシンガポール)
リーグ戦の集客は不透明すぎるが、日本国内と同様に代表戦の人気は今後もしばらく続くだろう。
そして、カンボジアにはワタナカというスター選手もいることがわかった。
この映像を見れば彼への期待度がどれだけ高いかがわかるはずだ。
これまで途中出場で何度かゴールを決め、この日も唯一チャンスを作り出した彼に期待したい。
そして、1番印象的だったのが試合中、何度かあったこの光景だ。
昔、バスでタイからカンボジアへ向かう時のことを思い出した。
当時の道は舗装されておらず、凸凹の道をひたすら走り続けた。
疲労困憊になりながらもうそろそろ限界という時に、目の前に無数のホタルが現れたのだ。
あの時の幻想的な気持ちは未だに憶えている。
これはただ観客が携帯のライトでつけただけだが、こんなことをスタジアムでするのはここが初めてだ。
カンボジアのサポーターは応援も、チャントも、横断幕も、ビッグジャージもない。
ほとんどの人が世界のサッカースタジアムの環境を知らない。
でも、それはこれからいろいろ学んでいけばいいと思う。
しかしこの光景は、何も知らない彼らからこそ作り出せることができた最高の雰囲気だ。
これを見るだけでも一見の価値はあると思う。
11月の日本代表戦で多くの日本代表サポーターが現地に来てくれることを期待します。
※この試合のより詳しい詳細は、今秋以降に出す予定の本に掲載予定なので楽しみにしてください(^^)
コメント