今日で東日本大震災から5年が経った。
毎年、この日が近づくと胸が締め付けられる思いになるが、今年は日本にいないせいか、いつも以上に辛い。
バイクで移動している時
カフェで仕事している時
部屋で一人でいる時
日々の生活の中のふとした瞬間に、あの頃のことを思い出すことがよくある。
震災から数日後、
福島の放射能の恐怖で、この家(当時は埼玉在住)にはもう生きて帰ってこれないかもしれないと思いながらも実家のある宮城へ行くことを決めた。
行くことを決めてから出発までの数時間、シャワーを浴びるにも、ご飯を食べるにも、何をするにも「これが最後かもしれない」と思い過ごした数時間の心情は忘れないし、今でも夢に出てくる。
幸いにも仲間と合流した後は気持ちが落ち着き、当時一般車両は通行止めだった高速道路の入口も「救援物資」と書いた貼り紙のおかげで突破でき、仙台に着くことができた。

そして、実家へ戻る時に通った沿岸部で凄まじい光景を目の当たりにした。
建物のガラスは全て割れ、泥に侵され、道路の両脇にはありえない数の車の残骸が積み上げられていた。
もう本当に言葉が出なかったし、この場所が自分が生まれ育った場所だと思えず、ただひたすら「ここは違う場所なのだ」と自分に言い聞かせ、この事実を受け入れられなかった。
だが、そんな大変な状況の中、現地の人は懸命に生きようとしていた。
塩釜体育館に積まれた世界中から届いた物資に感動。自分たちは一人じゃないんだと思った。
地元の人たちと必死で仕分け作業を手伝い、現地の様子を聞いた。
翌日、母がけが人の世話をしていた避難所に行ったが、そこでは大人も、子供も、老人も、ヤンキーも、普段の社会ではなかなか接することのない人々が助け合いながら救援物資を運んでいる姿に心を打たれた。
もうこの一大事にプライドなんてものは存在しない。
ただ、目の前の命を必死に助けるために皆、懸命に動いていた。
この日、夜中になんとか実家へたどり着くことができたが、余震の連続でなかなか眠ることができなかった。
東北の余震は、東京で感じたものとは全く違い、体にも心にもダメージを与えた。
翌朝、母がご飯を作ってくれたが、水が止まっていてお茶碗が洗えないので、このサランラップ付きのご飯を出してくれた。

水が出ないということはトイレもお風呂も入れない。
息子には「こっちは大丈夫だから危ないから来るな」と言っていたが、来てみると両親は想像以上に辛い生活をしていた。
震災が起きた日から今日まであの時のことを忘れたことはない。
だが、未だに震災の話をすると腫れ物に触るような感覚で煙たがれる経験をよくする。
その度に本当に悲しいし、悔しい気持ちになる。
だが、今日はカンボジア在住のサッカー仲間がチャリティフットサル大会を開催してくれた。

試合前に全員で黙祷。
カンボジアリーグ所属5チームから選手も来てくれて、終始皆で楽しくプレーすることができた。
日本から遠く離れているカンボジアで、こんなにも多くの人が東北のことを想ってくれている。その事実だけで僕は嬉しかった。
僕は東北の人の温かさが大好きである。
昨年からカンボジアに住みはじめ、働いているのでなかなか日本に帰ることはできないが、また東北の人たちに会いたい。
石巻や牡鹿、岩沼、そして閖上にも行ってカンボジアでもこんなに多くの人が想ってる、祈っているということを伝えたい。
いつになるかわからないが、自分にはそれを伝える使命があると思い、今回ブログに書きました。
今日で5年が経ちましたが、今後も東北の人たちのためにできることを考えて、実行したいと思います。
毎年、この日が近づくと胸が締め付けられる思いになるが、今年は日本にいないせいか、いつも以上に辛い。
バイクで移動している時
カフェで仕事している時
部屋で一人でいる時
日々の生活の中のふとした瞬間に、あの頃のことを思い出すことがよくある。
震災から数日後、
福島の放射能の恐怖で、この家(当時は埼玉在住)にはもう生きて帰ってこれないかもしれないと思いながらも実家のある宮城へ行くことを決めた。
行くことを決めてから出発までの数時間、シャワーを浴びるにも、ご飯を食べるにも、何をするにも「これが最後かもしれない」と思い過ごした数時間の心情は忘れないし、今でも夢に出てくる。
幸いにも仲間と合流した後は気持ちが落ち着き、当時一般車両は通行止めだった高速道路の入口も「救援物資」と書いた貼り紙のおかげで突破でき、仙台に着くことができた。

そして、実家へ戻る時に通った沿岸部で凄まじい光景を目の当たりにした。
建物のガラスは全て割れ、泥に侵され、道路の両脇にはありえない数の車の残骸が積み上げられていた。
もう本当に言葉が出なかったし、この場所が自分が生まれ育った場所だと思えず、ただひたすら「ここは違う場所なのだ」と自分に言い聞かせ、この事実を受け入れられなかった。
だが、そんな大変な状況の中、現地の人は懸命に生きようとしていた。
塩釜体育館に積まれた世界中から届いた物資に感動。自分たちは一人じゃないんだと思った。
地元の人たちと必死で仕分け作業を手伝い、現地の様子を聞いた。
翌日、母がけが人の世話をしていた避難所に行ったが、そこでは大人も、子供も、老人も、ヤンキーも、普段の社会ではなかなか接することのない人々が助け合いながら救援物資を運んでいる姿に心を打たれた。
もうこの一大事にプライドなんてものは存在しない。
ただ、目の前の命を必死に助けるために皆、懸命に動いていた。
この日、夜中になんとか実家へたどり着くことができたが、余震の連続でなかなか眠ることができなかった。
東北の余震は、東京で感じたものとは全く違い、体にも心にもダメージを与えた。
翌朝、母がご飯を作ってくれたが、水が止まっていてお茶碗が洗えないので、このサランラップ付きのご飯を出してくれた。

水が出ないということはトイレもお風呂も入れない。
息子には「こっちは大丈夫だから危ないから来るな」と言っていたが、来てみると両親は想像以上に辛い生活をしていた。
震災が起きた日から今日まであの時のことを忘れたことはない。
だが、未だに震災の話をすると腫れ物に触るような感覚で煙たがれる経験をよくする。
その度に本当に悲しいし、悔しい気持ちになる。
だが、今日はカンボジア在住のサッカー仲間がチャリティフットサル大会を開催してくれた。

試合前に全員で黙祷。
カンボジアリーグ所属5チームから選手も来てくれて、終始皆で楽しくプレーすることができた。
日本から遠く離れているカンボジアで、こんなにも多くの人が東北のことを想ってくれている。その事実だけで僕は嬉しかった。
僕は東北の人の温かさが大好きである。
昨年からカンボジアに住みはじめ、働いているのでなかなか日本に帰ることはできないが、また東北の人たちに会いたい。
石巻や牡鹿、岩沼、そして閖上にも行ってカンボジアでもこんなに多くの人が想ってる、祈っているということを伝えたい。
いつになるかわからないが、自分にはそれを伝える使命があると思い、今回ブログに書きました。
今日で5年が経ちましたが、今後も東北の人たちのためにできることを考えて、実行したいと思います。
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